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【参考資料】教育課程部会(第2回) 議事要旨

突然ですが、私が読んで大変興味深かった資料の一部をここに転載します。

資料の元の全文は、文部科学省HPはこちらにありますよ→

・・・HPの文、結構長いですw
でもどこかで見た、どこかで聞いた、どこかで問題になってた・・・という内容が出てきて飽きません。
お時間のある時に、ぜひHPの方も覗いてみてはいかがでしょうか?


以下「教育課程部会(第2回)議事要旨」より 抜粋**********************

(前略)

○ それでは、上野先生、お待たせいたしました。
上野先生について簡単にご紹介申し上げます。上野先生は、京都大学の理学研究科の教授でいらっしゃいます。ご専門は複素多様体論と伺っておりますが、日本総合学習学会の会長もお務めでございます。今、委員の皆様方の机の上に、『誰が数学嫌いにしたのか』という、先生の出版されました本を置かせて頂いておりますが、こういうことに対して積極的に発言をされております。私、日本学術会議で先生とご一緒に、教育体系の再構築の特別委員会において、ここでお話しされるようなことについて議論しております。
それでは、先生、20分ほど、よろしくお願いいたします。

□ 私自身は、京都大学の理学研究科で実際に、主として研究者の養成の教育に当たってきました。それからもう1つは、京大に移る前、東大と合わせまして30年以上にわたりまして、大学入試の数学の採点をやってまいりました。そこから、現在の大学生の力について危惧を持っておりまして、そのことからいろいろな発言をしております。私、かなりストレートに物を言うものですから、失礼な発言になる場合もあるかもしれませんけれども、忠言は耳に逆らい、良薬は口に苦しという言葉で免じていただきたいと思います。
私自身、京大生を見ておりまして、特に十数年ぐらい前から、ある種の異変を感じ始めました。それについては、数学仲間、みんな一様に同じことを言っておりまして、私たち自身は、数学というのは、教育における1つのカナリアの役割をしているのではないか。昔、鉱山に行くときに、二酸化炭素があるかどうかというのでカナリアを持っておりて行ったわけですけれども、それに近いことが実際起こっているのではないかと思います。
大学での数学の教育といいますのは、ある程度抽象的な能力を身につけているかどうかということが、まずキーポイントになりまして、それは授業をやれば、はっきり目に見えますが、10年前から従来の形での授業ができなくなっています。
それからもう1つは、大学入試の答案を見ておりますと、ここ十数年、特にここ5年以内、すさまじいまでの学力低下が見えてまいります。以前ですと、出題者の意図を、まるであざ笑うかのような、見事な解答というのが必ずありました。出題者はこう思って出したのだろうけど、いや、全然別の解き方があるんだと、ある種、ざまあみろという感じですね。こちらが一本とられたという感じの答案が幾つかありました。それが楽しみだったんですけれども、それが全くなくなりました。すべて同じパターンの解答になりまして、ここ四、五年、もっと恐るべきことは、すべての問題に解答は書いてあるんだけれども、すべてが途中で終わっている。最後まで完答できている答案がほとんどなくなってしまっています。ですから、点数からいえば、かつての例えば6問中2問完答し、あとは部分点とかで例えば4割とか5割とかとっていたのが、今はそうではなくて、すべての問題に関して4割とか、あるいは3割とって、少しいいのは7割ぐらいとってという形で、点数としては4割ないし5割できている答案ばかりです。点数だけ見ていては、その変化はわかりませんし、それから、中に書いてある文章を見ますと、誤字脱字は当たり前ですけれども、最近は漢字は書けなくなってしまって、文章も書けない。ただ、式がなぐり書きにしてあるという答案がほとんどになっております。
そういう意味で、単にテストの成績だけ、平均点だけで学力のことを論じられるのは、非常に問題があるのではないかと思います。
それからもう1つ、分数とか小数ができない大学生がいる、計算ができない大学生がいるというので大騒ぎになりましたけれども、私自身、それを不思議と最近思わなくなっています。学びの質が本当に変わってきているのではないか。単に、目の前にある情報を処理するような形で勉強をとらえているのではないかと思います。ですから、何も自分で引っかかるところがないんですね。先生に言われたとおり、そのまま覚えて、それを答える。必要がなくなってしまったら、すぐ忘れてしまうということが、本当に起こっていると思うんです。そのために、分数とか小数を本当は使わなくてはいけない場面はたくさんあるはずなんだけれども、それを自分で適用することができないものですから、簡単に忘れてしまう。
最近、京大の教育学部の大学生との雑談の中で、小学校の分数の計算で割り算というのは分母と分子をひっくり返して掛けるというのは、あれすごく不思議に思うよねという話をしましたら、何人もの学生が、不思議に思わなかったという答えが返ってきたんですね。私、実は非常にショックを受けたんですけれども、例えばマイナス掛けるマイナスがプラスになるということ、大人の方々に数学のお話しをすると、必ず、どうしてですかと聞かれるんですね。でも、そういうことに対して、若者たちは何の疑問も持たなくなってしまっているという、非常に恐ろしい状況が実は起こっているのではないかと思います。
1つだけ誤解していただきたくないのは、大学生の能力そのものが下がっているわけでは全くありませんので、この点だけは絶対に誤解していただきたくないのですが、要するに、自分の能力を使う訓練、基礎訓練が欠落していて、それが大学の4年間ではほとんど補うことは難しいという現実です。
大学生の学力低下というのは、何も小数、分数ができないということではなくて、一番大きな問題は、やっぱり興味、意欲、関心というものが本当に持てなくなってしまっていることです。ですから、文部省がここ10年以上言われている、「新しい学力」に関して、その落ち込みが著しいというのは、私たち自身、肌身で感じていることでして、これは多分、大学の、特に理学部の先生に聞かれましたら、異口同音に答えが返ってくると思います。
何かわからないことを、自分で考え続けることに対して耐えられない。わからないことは、すべてだれかに教えてもらって、すぐ解決しないと気持ちが悪いという状態に、多くの学生がなっています。それは、要するに考え続けていくための力がついていないということだと思います。
最近、学力は落ちているのか、落ちていないかで、いろいろ議論していますけれども、私はもうそういう議論はやめるべきではないか。むしろ、本当に大事なことは、どうやって学力を向上させるか。その学力というのは、興味、意欲、関心とか、自ら課題を見つけて、自ら解決する力をどうやってつけたらいいかということに関することで、そのことに関しては、文部科学省のおっしゃっていることも、いろいろな教育学者がおっしゃっていることも、みんな気持ちは一緒だと思うんですね。問題は、その方法に関して、いろいろな異論があるというところだろうと思います。
もう1つ、これはちょっと学力と直接関係ありませんけれども、京大の理学部を見まして、いろいろ心配なことがたくさんあります。
例えば、理科の実験で、真冬ですけれども、フラスコを滅菌していて、滅菌が終わって、そのまますぐ、何げなく冷たい机の上に置いて、フラスコが割れて、ガラスの破片で危うく頸動脈を切りかかって大けがをしたという事故が起こっております。基本的な体験が、私たちの子ども時代はあった体験が、実は子どもたちにとって身近になくなってきていることがたくさんあるわけですね、自然が単にないだけではなくて。例えば、私が今住んでいるマンションですと、調理器は全部電磁調理器になっておりまして、そうしますと、そこに育った子は、炎だって見たことないかもしれないですね。
実際に、きのう、全然別のことで話をしておりましたら、ある大学生と一緒に合宿に行ったら、ゆで卵をつくろうというので、熱湯の中に手を入れて、卵を入れようとした。そういう、本当に信じられないような基礎的な知識が、実は欠けております。
それから、体力も間違いなく欠けておりまして、特に背筋の力はすごく落ちていると思うんです。それから、特に大学の学生食堂なんかへ行って、ぜひ見ていただきたいのですけれども、まともにはしを持って食べられる学生が非常に減っている。すごい例になりますと、本当にこんなわしづかみして食べている子がいるんですよね。信じられないんですけれども、そういうことが現実に起こっているわけです。
そういうところ、要するに家庭とか地域の教育力が非常に落ちているということを前提の上で、教育の議論していかないと、これは大変なことになるのではないかと思います。
大分、前置きに時間をとってしまいましたけれども、21世紀、これから生きていく子どもたちにとって、何が必要とされる学力であるかというのは、1つは、これからは社会全体がグローバル化されていったときに、いろいろな異文化、あるいは非常に考えの違う人たちとつき合っていかなければいけない。そのときに、自分の考えをきちんと述べて、かつ、相手の考えをきちんと理解しながら意見を交換し合っていく力が非常に大切になってくるわけです。その基礎をなしているのは、本当の意味での論理的に思考し表現する力だと思います。
それからもう1つは、自分の思い込みではなくて、やっぱり事実を本当に客観的に見て、一体何が真相であるかということを、本当に看破できる力、これは鈴木大拙が『西田の思ひ出』という中に書いた文章をとらせていただいたのですけれども、それは敗戦直後に、科学をこれから振興しなければいけないということに対して、鈴木大拙が、禅の大家だったのですけれども、日本人というのは物事を主観的にばっかり見ようとしていて、客観的に見ようとしていないと、数学とか科学というのは実用になればいいとして、ちっともその本質を勉強しようとしていないというので、厳しい批判をしているわけです。その批判が五十数年たった今でも、実は全くそのまま通用しているということは、悲しいことであると思います。
先ほど、大学生が疑問を持ち続けたり、あるいは興味、意欲、関心が持てないことを言いました。実は、興味、意欲、関心は瞬間的には持てるんです。私は、毎年1月の6日と7日に高校生を集めまして、数学のことに関して仲間と一緒に講義をやりますと、本当に2時間半休みなしでも、目を輝かせて、みんな聞いてくれるんですね。多分、高校の先生が見られたら、あの生徒がと思われると思うんですけれども。でも、そういう子が京大に入ってきても、では、それがうまくいくかというと、なかなかうまくいかないというのは、瞬間的にはものすごい興味を持って、やってみたいと思うんですけれども、いざ、興味を持続させるために必要な基礎的な力がやっぱりついていないんですね。あるいは、わからないことを、自分でどうやって調べたらできるかという、そのスキルが十分に開発されていないものですから、せっかくの興味とか意欲、関心が、そこでなえてしまっている。そういう現実があります。
それからもう1つ、特にこれは今の日本で大事なことだと思うんですけれども、社会全体に今ゆとりがなくなってきたときに、個人個人に負わされる責任の多さというのは、非常に大きくなってくるわけです。1人のミスが、とんでもない大事故につながったり、大事件につながったりすることが起こるわけです。今までですと、何人かの人がいて、ある程度話し合いながらリーダーシップをとっていったと思うんですけれども、これからは一人一人がリーダーシップをとらなければいけない状況が出てきて、それがどこで起こるかわからないんですね。例えば、雪印の中毒事故の場合でしたら、大樹工場でたまたま停電していて、その後の牛乳を本当は捨てなければいけなかったんだけれども、いや、殺菌すれば大丈夫だと思ってしまって、黄色ブドウ球菌が毒素を出すということを忘れてしまった。たった1人の、ある種不注意なんですけれども、それがたくさんの人の食中毒を起こす原因になってしまった。そういう場面が、これからむしろ、特にインターネットなんか普及してきますと、いろいろなところで起こってくると思います。
そういう意味では、これからのエリートというのは少人数ではなくて、非常に多くの人たちがエリートにならざるを得ない。もちろん大きな意味でのエリートから、ちっちゃな場面でのエリートもあると思いますけれども。そういう意味では、個人個人の持っている責任の重さ、それを、だから支えるために学力というものが、やっぱり本当に必要になってくるのではなかろうかと思います。
そういうこともあって、私、日本総合学習学会というものをつくりまして、小学校の先生から、中学校、高校、大学の先生一緒に集まりまして、「総合的な学習の時間」をどう使うかということを議論しております。そういう過程で、先生方といろいろ議論をしていくわけですけれども、そこで非常に強く感じますのは、日本の教育は何かバランスを欠いているのではないか。振り子があっちへ、こっちへと極端に揺れているのではないかという気がしてならないわけです。論語に有名な「学びて思わざれば則ち罔く、思いて学ばざれば則ち殆うし」という言葉があります。学ぶことと思うことということは両方とも大事なことであって、それが本当に相互に、車の両輪のようなもので、相互に行き来しながら、学びかつ考えながらいって初めて、興味とか意欲というものもわいてくるし、それが持続していくわけですけれども、それがどうも、創造的な考え方を持たなければいけないというので、考えろ、考えろといって、思うことばかり強調してしまったり、あるいは、それでは何も身につかないから、では、学べ、学べで一方的に学ぶことだけいってしまっている。どうも中間がうまくいっていないのではないかと思います。
「総合的な学習の時間」も、実際は学校にいろいろな主体的な行動が任されていまして、教科学習を単に補うだけではなくて、教科学習の持っている意味を見出したり、あるいは学ぶことの意義とか、あるいは学び方自身を学べるような時間に使うことができるはずなのですけれども、時間的余裕がないこともありますけれども、先生方はなかなかそこまで考えがいかない。
それから、2002年から始まる新学習指導要領を考えますと、果たしてあの内容で本当の意味での総合的な学習ができるかという、基本的な疑問を、総合学習に対して何とかしなければいけないという意識を持っておられる先生の方が、むしろ強く持っておられるんですね。
例えば、1,000引く3けたの数の計算が教科書からなくなってしまった。千円札を出して、おつりの計算が電卓を使わなければできなくなってしまうということ、果たしてそんなことで本当にいいのかという疑問は、先生はみんな持たれるわけですね。実際に、総合的な学習の中では、統計資料を見たり、環境問題、環境ホルモンの問題にすれば、1兆分の1みたいな、本当にごく微量なことを考えなければいけないわけですね。この地上には60億人ぐらいの人口がいるわけだけれども、もしかすると100億になるかもしれない。そうすると、そういう人たちの食料は一体どれだけかということを計算しようと思ったら、本当に大きな数も計算しなければいけなくなるわけです。それが全部電卓を使ってしかできなくなってしまったら、これはやっぱり、本当の意味での興味は持てなくなってしまうんですね。
例えば、円周率は3.14だけれども、半径5センチの円の面積を求めよという問題は電卓マークがついているというのが、NHKのニュースで出ていましたけれども、5×5×3.14ですよね。でも、そこはもしも、例えば分数で5だったら2分の10なんだから、5×5というのは2分の10×2分の10だから、4分の100で、結局、25というのは100割る4なのだから、だから、100×3.14÷4にすれば、ほとんど暗算でできてしまうんですね。
私は計算というのは、単に計算をやるのではなくて、計算は嫌だから、それを工夫するというところに大事なことがあって、その工夫を通して、こう見れば、こういうふうにやってみたら、いやあ、難しい問題でも実は簡単に計算できるとか、そういうのがたくさんあるんですね。江戸時代に出ました『塵劫記』という有名な数学のベストセラーがありますけれども、そこで扱われている問題を見ますと、ほとんど日常生活に直接関係あるのだけれども、数値自体はものすごく大きいんです。なぜそんな大きな数値の問題を出しているかというと、要するに、そういう大きな数値を扱うことによって、数値の感覚を身につける。量的な感覚を身につけるということを考えていたんですね。
だから、『塵劫記』は、350年以上前の本なんですけれども、そこでは既に、一体教育というのは何であるかということを、十分に吉田光由という人は、本能的であったかもしれませんけれどもわかって、そういう問題を出していました。
そういう伝統を忘れ、掛け算の基本は九九であって、2けたの掛け算がわかればすべてわかるという形で、2けたの掛け算だけ繰り返していても、計算力は絶対に身につかないということは、長い実践でわかっているわけです。たまには、非常に大きな数を計算してみて、そこで初めて計算の仕組みがわかって、ああ、そうなっているのかと納得できるわけですね。そういう体験が、実は現在の大学生にも非常に欠けております。
ですから、京大の理学部で、化学の実験のときに滴定といって、化学反応を起こす溶液の量をきちんと調べる実験があります。小数点以下2けたの数の引き算が必要になってきます。それが実は、今の大学生でも、残念ながら、紙に数値を書いて、パッと計算ができないんです。もちろん最初の実験で電卓の用意はありませんから、携帯の電卓機能を使って、計算しているんですよ。それではとっさの事故のときに、何か本当にパッとやらなければいけないときに、そんな状況で本当に大丈夫であるか。ということを考えたときに、新学習指導要領というのは、やっぱり時代に逆行しているのではないか。これから21世紀、大変な時代になってくるときに、本当に力をつけなければいけないという子たちのためには、もっと工夫しなければいけないのではないかと考えます。
それでは、一体どうやって学習意欲を向上させたらいいかというと、いろいろな問題点があります。もちろん、基本的な国語とか数学とか理科の時間をもっと増やしてほしいというのもありますけれども、それ以上に、私が強調したいのは、まず、学習できる環境をきちんと整えていただきたいという点です。
例えば、図書室、学校図書館というのがあるんですけれども、実は学校図書館法という、はるか昔、昭和二十八年にできて、司書教諭を置かなければいけないけれども当分の間は置かなくていいとされていて、その「当分の間」がごく最近まで続いてきたわけなのです。でも、単に司書教諭がいればいいというのではなくて、やっぱり図書室には常時司書の人がいて、子どもたちが来たときに、どうやって資料を調べたらいいかとか、あるいは読書の相談に応じるとか、あるいはこんなおもしろい本があるという、たった一言のサジェスチョンでいいんですけれども、それが常時できる人がやっぱりいなければいけないと思うんですね。そういうことに関しての配慮というのが、全体を眺めてみたら、それはほんの些細な問題のように思いますけれども、欠けているのではないか。
子どもたちが自然体験もない、本も読まないと批判するのは、子どもたちを責めるのは勝手なんですけれども、でも、本を読める状況に、実は私たち大人が子どもたちを置いていないのではないか。自然を体験できるような状況に、実は私たちが子どもたちを置いていないのではないかということを真剣に反省しなければならない。
だから、校庭にビオトープをつくって、本当にちっちゃな自然でもつくるとか、あるいは理科の実験室にもう少し最新の器具を入れて、子どもたちがもっと実験できるようにするとか、それから、図書の予算は、それは学校がたくさんありますから、膨大な額になるのですけれども、図書室に、古い本しかほとんどなくて、子どもが興味を持てるような本が少ないんですね。もちろん地域の、市の図書館とか、あるいは県の図書館とタイアップして、借りてくるとか、いろいろな方法があると思うんですけれども、その中で一番大切なのは、常時図書室にいて、司書の役割をされる方を配置するということを、もう少し真剣に考えていただいてもらわないと、これからの時代は大変ではないかと思います。もちろん、インターネットを使えば大丈夫だという御意見もあろうかと思いますが、やっぱりインターネットだって、そばに誰かがいて、ちょっと一言アドバイスするだけで、使い方が抜群に違ってくる。同じ資料をインターネットを使って調べるにも工夫がいります。世界遺産の数を調べよという問題を出されたら、みんな答えが違ったというんですね。それは、インターネットでサイトを検索して、最初に当たったサイトでの数を見ていったんですね。いつそのサイトが更新されたかという年月を見ていないものですから、そういう初歩的で、実はつまずいてしまうということはたくさんある。そういう意味で、読書は、やっぱりこれからも本当に大事になってくると思うんですけれども、そのための司書の役割ということを、もう少し見直していただきたい。
もう1つは、先生の学力アップを本当にやっていただきたい。例えば、先ほど小数とか分数の話をしましたけれども、数学において、小数の本当の意味と役割がわかったのは19世紀後半です。それから、分数の本当の役割がわかったのは20世紀前半、抽象代数学ができてからのことなんですね。そのことを、べつに詳しく知っておかなくても、そういうことがあるんだということを知ってもらうだけで、子どもたちに対する接し方が全然違いますし、実は子どもたちって、恐ろしいほどの創造力を持っているんです。とんでもない発想をして、それこそ20世紀にわかったような考え方を、実は何げなくパッと出してしまうんですね。もちろん、自分でわかっているはずはないんですけれども。でも、残念なことに、数学や算数の質問をされたときに、先生がわかっておられないものですから、せっかくの子どもの芽を摘んでしまうんですね。実は、そこからものすごく発展していく題材はあるんだけれども、先生が知らないから。そのための手当てを何とかしなければいけないのではないかと思います。
特に今の教員免許状を取得する課程において、特に小学校、中学校において、専門の課程の勉強が少な過ぎると思うんです。
きのうも、私の友人が広島地方の新聞の投書欄を送ってきたんですけれども、小学校で、長方形の面積の計算をしなさいというテストが出ていて、式が△になって、答えが○になっていた。なぜ式が△になったかというと、学校では、長方形の面積は縦×横だと教えたのに、その子は横×縦に書いていたからだというんですね。でも、長方形、横、縦というのは、ひっくり返せばどうでもなることですから、そんなことどうでもいいことですし、掛け算は順番を変えてもいいわけですからね。
皆さん、お笑いになるけれども、現実に起こっていることなんです。私の息子の場合も、中学校の幾何の問題で、わからないから聞かれたことがありまして、息子のノートを見ると、私が言ったことと違う書き方がしてあるんですね。どうして、さっき言ったのと違うのと聞いたら、教科書ではこう書いてある。それは、「ゆえに」か、「よって」か、「したがって」かの言葉の違いなんです。だから、どう書いても正しいのにその教科書どおりに書いておかないと5点引かれるというんですね。
ばかげているんですけれども、これは先生が本当にはわかっておらないから、自信がなくて、つい教科書に書いてあるものにしか○をあげられなくなってしまっているのだと思います。そういうことを改善するためにぜひ、何らかの対策を打ってほしいと思います。
それからもう1つ、江戸の末期から明治時代に、私たちヨーロッパのいろいろな科学技術の文明を受け入れたわけなのですけれども、それが決して、単に私たちが勤勉だっただけでなくて、実は江戸時代の深い文化の蓄積があって、初めて可能であったということは強調しておきたいと思います。
明治6年に佐藤則義という人が書いたノートなんですけれども、円の半径を求める問題を、和算の式とXとかAを使ったヨーロッパの方式との両方で解いてあります。ほとんど同じ式です。和算の縦の式を、記号をXとかAを使って書き直してやれば、自動的に、実はヨーロッパの数学に変換できたんです。こういう蓄積があったからこそ、初めてヨーロッパの科学・技術を消化することが可能になってきたのであって、これから21世紀、地球環境問題とか、人類の存続の危機が間近に迫っているような大変な時期にあって、子どもたちの基礎学力というものはできるだけ高くつけておくことが、私たちの責務だと思うんです。そのために、たとえば、単に2けたの掛け算を一生懸命何度も何度もやれば基礎がつくのではなくて、それこそ5けたとか10けたの計算を一度やってみて、計算の仕組みがわかって、初めて意欲が沸くわけですから、特に教科書は、もっと先の方まで題材を入れるような形に、ぜひ改訂していただきたいと思います。

(以下略)

以上 引用終わり*************************

うむう・・・。

考えさせられますね。
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