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ほーりー

Author:ほーりー
どんぐり卒業後の娘の、その先の日々を見守っています。
このたび無事に志望校に合格し、受験生を卒業しました~♪
2017年春からは高校生です(^^)ノシ

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【参考】黒バス脅迫事件】実刑判決が下った渡邊被告の『最終意見陳述』(「かみぷろ」さんより)

背筋が凍る思いです。

犯罪を犯した男性が、自分のこれまでの人生を振り返って書いた文章なのですが、恐ろしいほどの鮮やかな自己分析が悲しい。
ただただ悲しい・・・。

【黒バス脅迫事件】実刑判決が下った渡邊被告のロジカルでドラマチックな『最終意見陳述』があまりにも切ない
↑上のタイトルをクリックすると元記事に飛ぶことができます

(以下「かみぷろ」さんの上記記事より一部引用)

(前略)
「このプロセスが上手く行かなかった人間が「生ける屍」です。これも転んだ子供でたとえます。子供が泣いていても母親は知らん顔をしていたとします。すると子供はその不快感が「痛い」と表現するものだと理解できず「痛い」という言葉の意味の理解が曖昧になり「感情の共有」ができません。さらに母親から「転ぶから走るな!」と怒鳴られて叩かれても、その意味を理解できません。母親に怒鳴られたり叩かれるのが嫌だから守るのであって、内容を理解して守っているのではありません。さらに「痛い」という不快感を取り除いてくれなかったことにより、子供は被保護感と「安心」を得ることができません。母親の言葉も信用できなくなります。感情と規範と安心がつながらずバラバラです。そのせいで自分が生きている実感をあまり持てなくなります。
幼稚園や小学校に進んでも「感情の共有」がないから、同じ日本語を喋っていてもあまり通じ合っていません。ですから同級生や教師との関係性の中で作られる「自分はこういう人間なんだ」という自己像を上手く作れません。これが自分が生きている実感をさらに希薄化させます。また規範がよく分からないので人となじめません。ある程度の年齢になれば頭で規範を理解できますが、規範を守った対価の「安心」を理解できません。規範は常に強制されるものであり、対価のない義務です。さらに保護者の内在化も起こってないので常に不安です。また普通の人なら何でもないような出来事にも深く傷つき、立ち直りも非常に遅いです。このように常に萎縮しているので、ますます人や社会とつながれなくなり「社会的存在」からは遠くなります。このような子供はいじめの標的になるか、極端に協調性を欠いた問題児になる可能性がとても高いのです。つまり学校生活を失敗してしまう可能性が高いということです。このことが子供の生きづらさをさらに悪化させます。」

(中略)

「せっかくの機会ですので、世の中に対して真剣に申し上げたいことが幾つかございます。

虐待についても申し上げます。「虐待」という言葉は英語のabuseの訳語。abuseの本来的な意味は「濫用・乱用」です。drug abuseは「薬物乱用」です。ですからchild abuseの正確な翻訳は「子供乱用」です。虐待の本質とは「両親が自身の欲望の充足のために子供を乱用する」ということです。自分は「虐待の本来の意味は乱用」という理解が社会に共有されることを切に望みます。この理解が社会に共有されないと、日本人が子供が死に至るまでの身体的虐待かネグレクトしか虐待として認識できない状態がいつまでも続きます。」

(中略)

「生きる力」とは何か?自分はここまで堕ちた人間ですから、それが何かがはっきりと分かります。それは根源的な「安心」です。「安心」があれば人間は意志を持てます。自分の意志があれば人間は前向きになれます。「安心」が欠如し、強い対人恐怖と対社会恐怖を抱き、肯定的な自己物語を持てない人間が「生きる力」がない人間です。」

(後略)


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「感情が伴った記憶」

先日。

「万能鑑定士Q」という本を読みました。
そうそう、もうすぐ映画が公開されるあの本です。

コレを読んで「そうか!」と思ったのでメモ。

読んでいただければわかるんですが、必要な部分をかいつまんで説明するとこんな内容です。

広く深い知識を駆使してどんなものでも鑑定してしまう女性、莉子。
しかし彼女はある時まで勉強ができないどころか、一般常識すら持ち合わせていないようなおちこぼれだった。
そんな彼女が変わるきっかけとなったのがある人との出会い。その人の「においを想像すれば、感情が刺激され、そこに付随するあらゆる事柄が記憶に残りやすくなる。」という言葉や様々なアドバイスを一つ一つ実践して行った結果、もともとの感受性の豊かさと相まって膨大な知識をモノにし、莉子は才能を開花さていく・・・。

まぁ、こんな感じで物語が始まります。

何度か書いてきたかと思いますが、ウチの長女はモノを捨てさせてくれません。
何年も使っていないし、もう要らないもの(例えば小さくてもう着れなくなった服、絵具で汚れた服なども含みます)だろうと思って私がゴミ袋へ入れた途端、それを見た娘は大粒の涙をぼろぼろとこぼしながら布団に突っ伏して泣くのです・・・(←小6の話w)。
モノを見ると、それを使った時の感情がよみがえるのでしょうねぇ・・・。
ゴミ袋に入れられたそのモノは、ただのモノではなく感情と記憶のまとわりついた大切な「思い出」そのものなのでしょう。
ま、しかし。「感情と共に記憶する」というのは、とても凄い事の様にみえますが非常に厄介。
あるモノ(本人以外にはゴミにしか見えなかったとしても!)を見た途端、モノに付随する想い出が溢れ出てくる・・・とか、対応する方としては非常にメンドクサイですよw
ある程度成長すればその辺は自分で気持ちの整理ができるのでしょうけれど、長女に関しては今のところマシにはなってきたがまだまだ・・・という段階です。

でも、それを逆手にとれば「感情と共に記憶がよみがえる」わけですから、都合良い方に使えばこれほど使えるスキルはない!という訳なのですね。
本人は意識してやるわけではありませんが、娘の時によって「度が過ぎる」記憶力はこういう所からきているのか~と、納得しました。


あー。
スッキリしたー。



I see!

「読書は他人にものを考えてもらうことである。
一日を多読に費やす勤勉な人間は、
次第に自分で物事を考える力を失って行く。」

「良書を読むための条件は、悪書を読まぬ事である。
人生は短く、時間と力には限りがあるからである。」


うひゃーーーーー!!!
来た来た!ぐっときた!


「小学校の漢字学習」について今考えている事

ぼんやりと今、考えている事のメモ書き。

考えは変わるかもしれませんが、一度書きだしてみます。
どんどん書き足したり削ったりするつもりなので、見る度に違う事もあるかもしれませんw



●宿題はどうするか

やらなくていい。
やらないほうがいい。

我が家は漢字の書きとりはこの6年間(今、6年生2学期)でほとんどやっていない
少なくとも「毎日1ページ埋めて来い」というような宿題は必要ないので絶対にやらない。

【これまでの漢字学習のながれ】
正しくはそれぞれの学年で書いているブログ内容の方が正しいと思います(^^;)。
もう一度確認するのが面倒なので(←オイw)、取りあえずの流れと印象を書きます。


【1年生】→学校配布の漢字ドリル・正直先生との関係で大変だったので、漢字に関してはあんまり覚えていない。たぶん普通にやっていたように思う。先生が毎回娘の書いた名前、漢字を赤字で書きなおすので、娘が嫌がっていたのが懐かしい。

【2年生】→学校配布の漢字ドリル・学校配布の漢字練習プリント等は1回だけ自分で書き、あとはマシーン出動。
この頃からは春のうちに予め先生と交渉済みで、ごく少量しかやらなくなった。

【3年生】→学校配布の漢字ドリルもやらず(なぞり書きだけはやったかな?)
夏休み前の50問テストで合格しないと夏休みに学校で勉強という先生の発破を本気にした娘が、生まれて初めて本気で漢字を練習したのがこの時。今でもこの時の事を「あの時は自分でもよく頑張ったと思う」と言って合格した事を懐かしんでいるw
その時以外は先生と話はついているのでごく少量しか書いていない・・・。

【4年生】→学校配布の漢字ドリルもやらず(なぞり書きだけはやったか・・・な?)
4年生は漢字だけでなく学習全般において「覚悟を決めて本気で何もしなかった」学年wとにかく毎日だらだらの~んびりと過ごしていた。
その一方でこの学年では「宿題係」という係りができ、先生とは話がついているのに「宿題係に色々と言われるのが嫌」という事でマシーンはフル稼働。2年、3年とマシーンが楽した分、とても大変だったorz。

【5年生】→学校配布の漢字ドリルはなんとなく学校で終わらせてくる。自主学習が多くなりたまーに漢字を1回ずつやったりやらなかったり。テストで点数を取りたいときはちょっと頑張ってみることもアリ。
このころから私が調節しなくても自分で考えて宿題をすることが増えた。マシーンの出動も極端に減った。

【6年生】→学校配布の漢字ドリルは勝手に学校で済ませてくるようになった。自主学習で時々漢字を1回ずつ書いてみたりすることも。テストは100点か10点か、というような両極端な点数を取るようになった。
6年2学期の3者面談では卒業までの自分の目標を言わされたのだが、「漢字を覚えて、漢字で丁寧に書けるようにする。」という6年生の目標とは到底思えない発言をしても、担任と母から「おお!それは素晴らしい!ガンバレ!!!卒業文集は書いた字がそのまま印刷だからな!」と喝采を浴びたw



5年生の時、誰かが宿題を忘れたという事の「連帯責任」とやらで、クラス全員休み時間に漢字の書きとりを1ページ分やらされた。書くことが大嫌いな娘は簡単な同じ漢字だけを書いて1ページを埋めて提出したところ、担任と友達に「もっと難しい漢字を書きなさい。これはずるい。」と言われ、消してやり直しさせられるという理不尽な事件が発生。
突っこみどころがありすぎて、もう笑うしかありませんよ。
こんな事が学校では普通に、しかも真面目に行われているのですよね~(--;)アホクサ。

とにかく、罰として漢字の書き取りをさせるとかは最悪の方法だと思います。
罰として勉強とかも絶対にやってはダメ!



●いつから本気で学習をするか

我が家は6年夏休みから始めたが、少々時間が足りないかな?と感じる

書くことが苦痛なタイプ、エネルギー量の少ないタイプ、集中力を当てにできないタイプの子は特に計画を緻密に練るべき
ほかに何もやることがなく、暇な時間がたっぷりとあるならば2学期からでも3学期からでも短期集中でできるかな?しかし、遊ぶ時間をつぶしてまでやるのではなく、本人も納得できる無理のない習慣となる事が必要


●どのような教材、どのようなやり方で学習をするか

基本は漢字を思い出しながらゆっくり大きく1回書く
書けた漢字はチェック、書けない漢字を確認したら、時間を開けてからまた書けるかをチェック
この繰り返しで、書けない漢字を効率よく潰していく

学校で配布されている漢字学習ドリルを使うのが効率が良いと思う
【理由】→本人が少なくとも一度目にしている事。国語で習った本文中に出てくる言葉なので、イメージと繋がりやすく思い出しやすい事。漢字ドリルには書き順、読み、熟語など、欲しい情報が1つにまとまっている事



④美しく書く必要はあるのか

必要ない、と言いたいところだけれど、うちの娘のミミズの字をみていると、ある程度の所で形に気をつけながら書く練習も必要だったなと思う。まだ素直に言う事を聞く頃にもう少し意識させてもよかったかなぁ・・・。

低学年では「こうかくとカッコいいよ!」とお手本を「見せる」のはいいけど、消して書きなおさせる必要ないと思う。低学年のうちはとにかく本人がやった事、書いたものを「消させる」とか「書きなおさせる」「大人の言う通りに手直しさせる」等というのは止めるべき。大人の想像を超えて子どもの心は「否定された」と傷つき、いつまでもその時の悲しい気持ちを覚えている。

うちの娘は未だに、1年生の時担任にされた嫌な事を思い出しては、頭を抱えてのたうちまわるほどw

ちなみに、私自身も思い出がある。イラストを描くのが大好きだった私は、子どもの頃茶の間で楽しくイラストを描いていた。その絵を観た父親から「こうかくともっとよくなると思うよ」と、突然のアドバイス。とてもやさしく温厚、自分でも油絵を描く芸術家肌の父なので、今思えば良かれと思ってつい口から出た一言だったと思うが、あの時の私はなぜかキレたw「余計な御世話じゃ!好きで楽しいから描いているだけで、巧くなりたくて描いているわけじゃない!」と・・・。(お父さんごめんねw)

「よかれ」と思ってのアドバイスや手出しは絶対にやめるべき。
これはどんぐり問題を取り組むときにも同じことが言えるので十分気をつける。



⑤どの程度身につけるかの戦略


望むらくは全て身につけてから卒業してほしい・・・母心。

折り紙は楽しむもの。

5年生になった娘は、4年の終わり頃から、ようやく指が自在に動かせるようになってきました!

「え?今頃???(笑)」
ですよね~(苦笑)。

時々、ねえねには折り紙ブームがくるので、その時々遊んではいましたが、
出来上がりはというと・・・(^^;)。

もちろん、「できない」わけではありません。
むしろ本を読んでその手順通りに追っていくことは私より上手です。
ただ「自分のイメージ程、細やかに、丁寧にはできていなかった」という事です。

娘にとってはここまでくるのに長い時間が必要だったのですね~。

そのおかげで今、や~っと折り紙を存分に「楽しめて」います。

あきれるほど繰り返し同じものを折り続けることもあります。
「鶴」を折れる事が嬉しくて仕方ないのだそうです。

普通サイズの折り紙で鶴を折り、次にはそれを1/4に切った折り紙で作り、更に1/4等分した紙で・・・。
それが終わると次はもっと大きな紙、更に大きな紙を使って折りました。

極大~極小までの鶴を並べて写真を撮ったりして満足そうです(^^)。



もし私が何も気づいていなかったら「うちの子はこんな事も出来ないの!?」と、
焦って折り紙を教え込んで『させて』いたかもしれません(^^;)。

そうすると当然、「無理やりさせられた」思い出しかない折り紙など、
一切やりたくもないし楽しめない5年生に育っていたことでしょう。

とあるブログの記事の様に、指の力をつける方法を試して、
早く「できる」ようにしてあげる方法もあったかもしれません。

でも、今は「待てた自分」に「よくやった!」と、拍手したい気持ち(笑)。

その事だけを考えても、
「いろいろ気付けてよかったなぁ~、私絶対に危なかったよなぁ~。」
と、ヒヤヒヤする思いです。

折り紙は遊び。
指を鍛えるためのものでもなく、
図形に強くなるからでもなく、
器用になるための訓練でもないのですよね。

「楽しむこと」を守れてよかった。

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